所沢市は多摩川と荒川に挟まれた長軸約50km、短軸15kmの長方形の扇状地状洪積台地のほぼ中央に位置し、東西南北をつなぐ交通の要衝であり、古くから豊な人々の営みが行われてきた。
歴史をひもとくと当地域の三ヶ島では江戸時代に眼科医の泰斗と称された鈴木一貫(1759~1824)や川越藩の藩医、菊川儀角(文化12年没)らが活発な医療活動を行った。とくに鈴木一貫は貧窮しているものには無料で治療 を行い、生活の面倒までみて、「任侠三ヶ島医術」と人口に膾炙されたとある。明治・大正期に入ると今に繋がる医家達の活躍が記録されている。新井外科医院の先祖は三ヶ島医術の伝統を継承しており、四代目の喜一氏は所澤町に新井病院を開設、住民の信頼を集め盛業を極めた。初代会長となった齊藤公平氏は昭和6年に齋藤病院を開設、 休診日は毎月1回、第一日曜日だけという体制で地域医療に尽力し、また会長を9期務め医師会の基礎を築いた。鈴木豊氏の御母堂、鈴木貞助産師は当時盛んであった民間信仰の「産泰講」を通じて母子保健の普及に尽力した。
昭和に入ると国民の衛生向上、体力増進が喫緊の課題となり、母子保健の推進・衛生思想の普及などの活動の拠点として保健所設置が構想され、その第一号が昭和12年1月に「埼玉県特別衛生地区保健館」として当時の所澤町に設置された。なぜ所澤町が選ばれたかは詳らかではないが、先人医師達の活発な活動が評価されたことも一因になったと思われる。
昭和25年に所澤町が市となり、それに伴って昭和27年4月10日に所沢市医師会設立総会で所沢市医師会として独立することが可決され、同年6月6日に設立が正式に認可された。創立時の会員は28名、初代会長は齊藤公平氏であった。本医師会は発足当初から先人達の伝統と精神を受け継いでおり、地域住民の医療需要に応じるため時代状況にあった様々な事業を県下の医師会に先駆けて行ってきた。昭和42年4月から休祝日の当番医診療の実施、昭和55年5月から第二次救急病院輪番制の構築、そして平成11年4月から市民医療センターにおける小児夜間診療の開設と市民の切実な要望に応えてきた。
地域医療の充実のためには医師だけではなく、良質な医療スタッフの養成も欠かせない。医師会は昭和41年5月に医師会立所沢准看護学院の開校、そして平成8年4月には看護専門学校を開校した。
高齢化、医療費の増大が社会問題になると、在宅医療の整備・充実が強く求められるようになった。医師会は平成9年4月に訪問看護ステーションの開設、平成12年4月には在宅介護支援センター、ヘルパーステーションを開設した。医師会の歴史をつぶさに調べると、先輩会員が地域医療の充実と発展のために多大の努力を重ねてきたことが分かる。今創立60周年を迎えるにあたり、この伝統と精神を継承し、次の世代に着実に受け渡して行くことこそ、我々現会員の最大の責務と感じる。