富岡製糸場

 

7月の暑い日、冨岡製糸場(群馬県富岡市)を見学に行った。

明治5年(1872年)設立でまだ鉄骨がない時代であったので二階建てのレンガ作りの工場の柱には木材が使われていた。よくもまあこんな重たそうなレンガと瓦を木の柱で支えたものだと驚いた。工場内には蒸気で動くフランス式の繰糸器が多数設置されていたそうだ。エアコンのない工場で蒸気機関を使っていたとは、さぞかし暑くて過酷な環境であったであろう。

二階に行くと屋根で覆われた広いテラスがあった。暑さ対策のためにこのような構造になっているのかと思い、テラスに居た係員風の方に聞くと、物を運ぶためにこのテラスを使い、テラスまでは物資を担いで階段を上がっていたと教えてくれた。電力もエレベーターもない当時としては人力に頼らざるを得なかったのだろう。

日本は明治になってたった4年で冨岡製糸場を稼働させ、やがて世界一の生糸生産国になった。どうしてそんな偉業が出来たのかと驚嘆する。どこにそんなお金があったのかと不思議に思う。

今の政府は何かというと「財源が」と言うが、欧米列強の植民地になるかもしれないという危機が迫るこの時代、そんな事は言っていられなかったであろう。

絹は古代からヨーロッパでは高級品でありシルクロードという絹を運ぶ道さえできた。この絹の市場を手に入れたいという野望を持つフランスは明治新政府に冨岡製糸場の設立を持ちかけたと考えられる。当時はとてつもない円安の時代で莫大な利益を得るビジネスチャンスであったと考えられるが、フランスは普仏戦争(1870-1871)で新興国プロシアに敗れた直後であり国内が大混乱していた。そんな中、冨岡製糸場のプロジェクトを支援して成功させたフランス人の商魂は称賛に値する。そしてこの工場を設立できた事は日本にとって大変幸運だったと思う。

 

けやき内科 西脇正人